SmartHRは2026年2月、プロダクト開発における意思決定の指針として「プロダクト原則」を策定しました。信頼性・透明性・効率性・新規性・即効性の5つの軸からなるこの原則は、日々の開発の現場から、ビジネスサイドとの対話、さらにはユーザーとの関係性にまで波及する「共通言語」です。
目指すのは、従業員にとってわかりやすく、誰もが当たり前に使えるプロダクトであること。そのために、開発とビジネスが同じ言葉で対話し、ユーザーにとっての価値を起点に意思決定しながら、既存の前提にとらわれず新しいものを生み出し続けていく——そうしたSmartHRらしいものづくりの考え方を、この原則に込めています。
本記事では、その策定の背景と意図について、CPOの安達に話を聞きました。
成長のなかで顕在化した「品質のばらつき」と「対話の難しさ」
—「プロダクト原則」策定の背景について聞かせてください。
安達:背景は主に二つあります。一つめは、会社が成長し、組織規模やプロダクト数の拡大に伴って生じてきた、プロダクトの品質のばらつき。この課題に向き合っていかなければならないという思いがあります。
以前から社内で「プロダクトの品質を上げていこう」というメッセージは発していました。しかし「品質を上げる」といっても抽象的で、かけ声一つでは大きな変化を生み出せずにいました。
—そうですね。ひと言で「プロダクトの品質」といっても、受け取りかたはさまざまありそうです。
安達:もちろん、メンバーは誰も「品質はそこそこでいいや」とは思っていません。しかし、多様なプロダクトがスピード感をもってリリースされていくなかでは、開発活動における判断がどうしても個別最適化していく傾向にあります。これがユーザーからすると、プロダクトごとにクオリティのばらつきを感じる要因となっていました。
みんな良いものをつくろうとしているのに、結果的にばらつきが出てしまう。ここで一度立ち止まって「SmartHRにとって良いプロダクトは何か」という目線を揃えなければならないだろうと思いました。これがプロダクト原則をつくった背景の一つめです。

—二つめの背景はどんなことでしょうか。
安達:二つめは、プロダクトサイドとビジネスサイドとの対話の課題です。これまで以上に急速な事業成長を目指すなかで、二者をつなぐ軸がどうしても「売上」になってしまう。「この機能があったらどのくらい売上が上がるか」「どれだけ解約が防げるか」と、すべてが売上ベースでの議論になりがちでした。
これは利益を追求する企業である以上、ある程度健全なことではあります。一方で、いかに新しい機能を早く市場に投入するかということだけが関心事になってしまうと、プロダクトの質に関する視点が抜け落ちてしまいがちです。
使いやすく、セキュリティやガバナンスの面でも信頼できて、安定的に稼働するプロダクトであることは、ユーザーにとっても自社にとっても重要です。しかし「売上」だけを共通言語として開発の優先順位を議論してしまうと、そういった質に対する投資が後回しになってしまいます。そこでプロダクトサイドとビジネスサイドをつなぐ共通言語として「売上」とは異なる軸をつくり、より中長期的な視点でプロダクトを育てていこうというのが、プロダクト原則策定のもう一つの意図です。
社会インフラとしての責任と、意思決定の基準をつくる
—日々の開発の現場でも、中長期で見た事業成長を考える際にも必要な共通言語として機能するのがプロダクト原則なのですね。
安達:SmartHRは現在、8万社を超える企業とその従業員にご利用いただいています。仮にわれわれのサービスが落ちてしまったら、日本中の働く方々に迷惑をかけてしまう。逆に画面表示が1秒速くなるだけでも、積み重なれば膨大な時間の削減になり、日本の生産性が上がることになります。
SmartHRは現在の事業規模をはるかに超えて、働く人すべてにとっての社会インフラとなることを目指しています。それだけ社会的責任が大きいのだということを、情報としては知っていても、普段から意識する機会は多くない。その意味でも、「SmartHRのプロダクトはどうあるべきか」の明文化は必要だと考えました。
また、AIによる開発環境の急激な変化も意識しています。AIを活用して開発スピードが上がると、開発プロセスのなかでじっくり考える時間はどうしても減ってしまいます。
その際に、プロダクト原則はレビューの基準としても機能します。AIはそのままでは一般的な基準で判断しますから、「SmartHRとして十分であるかどうか」の尺度を決めておく。実際にはさらにブレイクダウンしていく必要がありますが、いわば憲法としてこのプロダクト原則を置いておきたいという思いがありました。
ルールではなく、現場の判断を支える「ポリシー」として
—プロダクト原則の役割についても聞かせてください。「ルール」ではなく「ポリシー」であると明記されています。
安達:組織として品質を上げる取り組みをするには、アプローチは二つあると思います。一つはルールを細かく作ることです。チェックポイントを定めて、この基準を満たさない場合はリリースしてはいけない、とガードレールを設ける。このアプローチも一定の範囲ではやっていますが、あまりにガチガチに狭いガードレールにしてしまうと、「ただここを通り抜けれさえすればいいんだ」とチェックを通すこと自体が目的になり、どんどん組織が思考停止に陥っていきます。僕はそれはしたくなかったんです。
絶対にここは守ってくださいという最低限のところだけを仕組みにして、あとは現場で、何が良いプロダクトなのかを主体的に考え、対話して、最適な選択を毎回する。何を優先すべきかは状況によっても変わるので、そこも含めて考えて、ものづくりに反映させられる組織。これが長期的に強い組織だと思います。だからプロダクト原則は、ルールではなくポリシー。意思決定を縛るのではなく、意思決定の基準を提供するものです。

—ものづくりの主体性はあくまで現場のメンバーに持ってもらうということですね。
安達:BtoBビジネスは、セールスやカスタマーサクセスなど、社内のビジネスサイドのボリュームが大きいんですよね。ここがBtoCビジネスとは異なるところです。そこで陥りがちなのは、ビジネスからの要望が多いものを要望通りにつくっていくという、開発の受託化です。開発者が、自分たちが良いと思うものを創意工夫しながらつくるという気風がどんどん薄れていってしまうことを、僕は一番恐れています。
開発チームには、自分たちのことを「言われたものをつくる工場」のようには思ってほしくない。みずからがちゃんとユーザーに向き合い、ユーザーが本当にほしいものを提案できる環境にするために、ルールでガチガチに縛るよりも、前提を共有した上で自由に発想できる状態にしたかったんです。それによって開発チームも自分たちのものづくりに誇りを持つことができ、結果として競争力のある、良いものがつくれる。これが僕の組織づくりの考えかたです。
「SmartHRならではの色」を追求した、5つの軸

—では、プロダクト原則の中身についても触れていきます。信頼性・透明性・効率性・新規性・即効性の5つのワードに、まとめていくなかで意識した点はどんなところですか。
安達:SmartHRならではの色をどう出すかは、特に意識しました。どの会社にとっても大切な要素も含まれていますが、すべてが「どこでも言えること」に収斂してしまうような、ありきたりなものにはしたくなかったんです。
たとえば「新規性」。言葉だけを見ると「単に目新しければそれでいいのか?」という疑問も当然ありえるのですが、SmartHRのDNAを考えると、これまでにない新しいものをつくり出すのが僕たちの重要な価値だと思うんです。労務手続きのSaaSというジャンルを切り拓いたのも、年末調整をアンケートの入力だけで完結させる仕組みを最初につくったのも、従業員がスマートフォンで入社手続きできるようにしたのも、いずれもSmartHRなんです。
新しいプロダクトをつくれば、いずれ追従する会社が現れて競争は激化します。それでも、いつでも僕たちは追従する側でなく、追従される側でありたい。新しい価値を提案し続けることでマーケットリーダーでいられますし、それが事業成長にもつながり、優秀な人材も集まる。だからこそ、この考えかたはコアの価値としてぶらさずに据えるべきだと判断し、組み込みました。このように「SmartHRにとってのコアは何か」を問い続けながら、5つの軸にまとめていきました。
—5つの軸の中でも特筆すべき点はありますか。
あえて順位をつけるとすると「信頼性」が最上位。絶対に守らなければならない原則です。従業員データという、企業にとって非常に重要かつセンシティブなデータをお預かりする立場として、この信頼性はすべての基盤になります。
僕たちはスケールアップ企業として「新しいものを、速く出していく」という強いプレッシャーのなかにいますが、それは健全な推進力として受け止めつつ、信頼性だけは決してないがしろにしてはいけない。スピードを優先するあまり、納得できないものを出してしまうのではなく、最後は踏みとどまって品質を担保してほしいという思いを込めています。スピードと信頼性はトレードオフではなく、両立できるものです。むしろ、その両立を実現することこそが、ユーザーからの信頼を獲得し、結果として事業成長につながると考えています。
プロダクト原則の詳細はこちら:事業から見るSmartHR
プロダクト原則が生んだ、組織の対話と“製販一体”の広がり
—このプロダクト原則を策定したことで、社内のコミュニケーションがどう変わると期待していますか。
安達:プロダクト原則の影響範囲は大きく3段階あると考えています。
第1段階は、まず開発チーム内の対話です。開発プロセスのさまざまなシーンで「これはプロダクト原則を満たしているだろうか」とメンバー間で対話するベースにしてもらえたらいいなと思います。
第2段階は、プロダクトサイドとビジネスサイドの対話です。たとえばプロダクトサイドから「今これをやっておかないと、中長期的に信頼性が悪化します」と言った形で提案してほしいですし、あるいは逆にビジネスサイドから「このプロダクト、ユーザー目線では透明性が低いように思います」とツッコミを入れるのにも使ってほしい。冒頭でお伝えしたように、「売上」軸ではない対話の共通言語にしてほしいです。
そして第3段階はユーザーとの対話です。プロダクト原則があることで、「こういうこだわりをもってこの機能をつくっている」とセールストークにも説得力を持たせられます。あるいは僕たちのものづくりの思想に共感いただいた上で、仮に足りない機能があっても「将来的に解消していく」という姿勢を会社としてオーソライズされた形で示すこともできます。プロダクトの思想を明文化し、対外的にも示していくことで、私たちの姿勢が正しく伝わることが大事だと考えています。
—実際に会社のなかでは変化は起きていますか。
安達:こちらから具体のアクションを求めているわけではありませんが、たくさんのチームが自発的に読み合わせをしたり、Slackで「プロダクト原則に照らしてこれはどうでしょう」という会話もなされており、根づきつつあると手応えを感じています。
ただ、このプロダクト原則を全社に向けて発表する際に、一緒に「製販一体」という言葉を出したんです。社内ではプロダクト原則よりも「製販一体」のほうが流行っていて(笑)。「製販一体を加速するためにこういうことをやりましょう」という声があちこちであがっています。そういう製販一体の会話のなかで、プロダクト原則も自然に使われるようになっていくといいなと思います。
僕はプロダクトの責任者ですが、ビジネスやコーポレートの人たちの反応が良かったのはすごく嬉しくて。セールスにしろ、カスタマーサクセスにしろ、コーポレートにしろ、積極的にプロダクトにフィードバックしていきたい、自分たち自身がプロダクトを好きだからこそお客さまに提案できる、という思いを大事にしている人たちなんです。開発者以外もプロダクトづくりに参加したいんだ、という思いが改めて実感できて、これは僕にとっても嬉しいことですし、会社にとっても意義は大きいと考えています。
「worker-friendly」が当たり前になる未来へ
—プロダクト原則が浸透していくことで、どんな未来を描いていますか。
安達:昨年、サービスビジョンを刷新して「worker-friendly」という言葉を掲げたのですが、業務担当者にとっても従業員にとってもわかりやすいことを、SmartHRのプロダクトにおけるコアの価値として捉えていきたいと思っています。
これまでの業務用のソフトウェアは、どうしても管理部門にとっての使いやすさが優先されて、従業員側は「多少使いにくくても仕方ないよね」と思われがちでした。実際、導入の判断でも、まずは機能やコストが優先されて、従業員にとっての使いやすさはどうしても後回しになりやすい。
でも、従業員が使いやすければ、それだけで全社の生産性は上がりますし、管理者への問い合わせも減る。なにより、使いにくいシステムの利用を強いること自体が「従業員を大切にしていない」というメッセージにもなりかねないと思うんです。だからこそSmartHRとしては、「ソフトウェアはもっと使いやすくあるべきだ」という価値観を、社会に提案していきたい。それは事業としての戦略でもありますし、同時に「なぜSmartHRなのか」というアイデンティティでもあります。従業員に対してフレンドリーであることは、その中心にある考え方です。

従業員として自分の手間や時間を大切にされていないと感じる環境にいたら、他人に対しても親切にするのって難しくなりますよね。そういう感覚は、きっとユーザー一人ひとりの接客やサービスにも表れてくると思っていて。だからこそ、ソフトウェアの使いやすさを通じて、社会に少しでもいい影響を与えられたらいいなと思っています。プロダクト原則はその礎にしていきたいですね。
最終的には、ソフトウェアが「意識されない存在」になるのが理想です。包丁や水道のように、当たり前に使えて、わざわざ使いやすい形かどうかなんて普段は考えない。目的を達成するための自然な道具としてそこにある状態ですね。
そういう世界を実現していくなかで、「従業員にとっての使いやすさ」をプロダクト選びの軸にしていただけるようにしていきたいと思っています。

編集/@fujiryo
写真/曳野若菜





