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人的資本経営を「開示」で終わらせない。「比較可能なデータ」と「経営の意思」をアクションへ

人的資本情報の開示が進み、多くの企業が自社の人事データを可視化するようになりました。一方で、人的資本経営を「開示」で終わらせず、集めたデータをどう経営や具体的な人事施策につなげていくかは、これから向き合うべきテーマの一つです。自社の現在地を客観的に捉え、目指す組織の姿を描くうえで、「他社との比較」はどのような役割を果たすのでしょうか。SmartHR代表取締役CEOの芹澤雅人が、比較可能なデータの必要性と、人的資本経営のこれからについて考えます。

人的資本経営は、「数字を出すこと」で終わらない

人的資本経営という言葉は、この数年で一気に浸透しました。2023年には大手企業を対象に人的資本に関する情報開示が求められるようになり、現在では企業規模に限らず、自社の人事データを集め、可視化する企業も増えています。
一方で、開示が進んだからこそ見えてきた課題もあります。数字を整え、目標を置くところまでは進んでも、その達成自体が目的になってしまい、次に何をすればいいのか悩む企業は少なくないのではないでしょうか。

「グッドハートの法則」と呼ばれる考え方があります。ある指標を目標にすると、その指標自体が目的化し、本来測ろうとしていたものを正しく表さなくなってしまうというものです。今の人的資本情報の開示でも、これに近いことが起きているように感じます。たとえば女性管理職比率やエンゲージメントスコアも、数値さえ目標を達成していれば人的資本経営ができているかというと、そうではありません。

これはダイエットに置き換えるとわかりやすいかもしれません。「5キロ痩せる」という目標の本来の目的は、体重計の数字を減らすことではなく、「健康になる」「着たい服を着る」といった理想の状態に近づくことです。

人的資本経営も同じです。「自分たちはどんな会社をつくりたいのか」「そのために、どんな組織や人材が必要なのか」という経営としての意思が先にあり、その実現に向けた状態を把握するために数字があるべきです。
人的資本情報は、開示することが問題なのではなく、その先にある問いを持てるかどうかが重要なのだと思います。

自社データだけでは、「現在地」は見えてこない

では、その問いをどう立てればいいのか。ここで難しいのが、自社の数字をどう評価するかです。自社データだけを見ても、その水準が高いのか低いのか、改善すべきなのかは判断しにくいからです。

人的資本に関するデータは、他社と相対化することで意味を持つものが少なくありません。たとえば、自社の離職率が10%だったとします。この「10%」という数字だけでは、それが高いのか低いのかを判断することはできません。同じ業界、同じくらいの規模の企業では5%なのか、20%なのか。それがわかって初めて、自社の状態を評価できます。
この「現在地を知る」ことは、今の日本企業にとって特に重要だと思います。これまで日本企業の多くは、年功序列やメンバーシップ型雇用を前提に組織をつくってきました。しかし今は、人材の流動化が進み、ジョブ型雇用を取り入れる企業も増えています。従来の前提が大きく変わるなかで、「そもそも自分たちにとって望ましい組織とは何か」を、多くの企業が模索している過渡期にあります。だからこそ、自社の状態を感覚だけで捉えるのではなく、データを使って客観的に捉え直す必要性が高まっているのだと思います。

ここで重要なのは「どの企業と比べるか」です。

業種が違えばビジネスモデルも違いますし、企業規模や成長フェーズによっても、必要な人員構成や組織のあり方は変わります。さらに職種や等級まで見ていけば、適切な水準はもっと細かく異なるでしょう。

従業員数50人のスタートアップと数万人規模の大企業を比べても、あまり意味はありません。単純に「日本企業全体の平均」と比較すればいいわけではありません。少なくとも業種や規模、企業のフェーズなど、一定の条件が近い企業群と比較できなければ、自社の現在地を正しく捉えることは難しいと思います。

ところが、人的資本については、こうした条件で比較ができる統計データがまだ十分に整っていません。

賃金統計や報酬水準を比較できるベンチマーキングサービスなど、一部のデータは存在しますが、対象企業や利用できる企業が限られる場合もあります。まして、人的資本経営で見たいものは報酬だけではありません。部署ごとの人員数や生産性、人員配置の妥当性など、業種や規模が近い企業と比較できる材料はさらに限られています。

こうしたデータを整えるには、それぞれ異なる形式で管理されている情報を比較できる状態に整え、適切に分類し、プライバシーにも十分配慮しながら統計化する必要があります。企業ごとのデータを安全に扱いながら、意味のある比較ができるだけの量と粒度を確保する必要があるのです。

一方で、クラウドサービスの普及によって企業の人事データがデジタルかつ一元的に蓄積されるようになりました。AIをはじめとするテクノロジーも急速に進化しています。以前に比べれば、多様なデータを比較可能な形に整えて活用していくための技術的な条件は整いつつあります。
だからこそ今、人的資本経営の次のインフラとして、企業が自社の現在地を客観的に捉えられる、比較可能なデータをどう整えていくかを考える必要があると思っています。

大切なのは、平均より高いか低いかを見て一喜一憂することではありません。比較によって見つかった「差」をどう捉え、自分たちはどこを目指すのか。その差分の考察にこそ、人的資本経営を実際のアクションにつなげるヒントがあります。

比較データが、As-IsからTo-Beへのストーリーをつくる

比較データによって自社の現在地が見えてきたら、次に考えるのは「自分たちはどうなりたいのか」です。

人的資本経営におけるデータ活用は、大きく「As-Is」と「To-Be」で考えることができます。As-Isは、自社が今どのような状態にあるのか。To-Beは、経営戦略を実現するために目指す人や組織の状態です。

他社との比較は、As-Isをより正確に把握するための重要な材料です。自社と他社の差分が見えると、「なぜこの数字は高いのか」「なぜここは低いのか」を説明する必要が生まれます。比較によって差分を見つけ、そこに説明を与えるプロセスそのものが、As-Isを解像度高く理解することにつながるのです。

As-Isがわかれば、「この状態を今後どうしたいのか」というTo-Beを議論できます。良いところは維持するのか、さらに伸ばすのか。悪いところは改善するのか。あるいは、経営戦略上の優先順位を考えて、あえて今は改善しないという判断もあり得ます。データは、数字を眺めるためではなく、アクションにつなげるために使うものです。

ただし、他社と比較する目的は、平均に近づくことではありません。研究開発を競争力の源泉と考える会社なら、R&D部門に多くの人材を配置する意味がありますし、営業力で市場を切り拓く会社なら、営業組織を厚くする選択もあります。重要なのは、平均との差をなくすことではなく、その差に経営上の理由があるかどうかです。その判断をするためにも、「自分たちはどんな会社になりたいのか」というTo-Beを、自分たちの言葉で持っておく必要があります。

以前、ある大学の先生と経営論を話した際、「人事施策で最後に重要なのは、『神の見えざる手』とは逆に、自分たちの手をきちんと入れることだ」という言葉が印象的でした。経済学では、個々の経済活動の結果として社会全体が自然とうまくまとまっていくことを「神の見えざる手」と表現します。それになぞらえるなら、人的資本経営で最後に必要なのは、むしろ「経営の見える手」なのだと思います。

データを比較すれば差分は見えます。しかし、その差分をどう捉え、どんな会社を目指すのかまでデータが決めてくれるわけではありません。最後は「私たちはこういう会社にしたい」「こういう組織能力を身につけたい」という経営の意思が必要です。その意思を、採用・配置・育成・投資配分といった人事施策に反映していく。

As-Isをデータで捉え、To-Beを自分たちの意思で描き、その間にあるギャップを施策によって埋めていく。このストーリーをつくることが、人的資本経営におけるデータ活用の本質だと考えています。

人事データ活用ロードマップの図表

人事が「経営の言葉」でストーリーを描く時代へ

では、そのストーリーを誰が描き、アクションにつなげていくのか。そこで、これからますます重要になるのが人事の役割です。

人事施策の策定と実行が難しかった理由の一つに、データをもとにした根拠を提示しにくかったことがあると思います。人事制度についての教科書やセオリーはあっても、それを自社にどうアレンジして落とし込み、「なぜ今、この人事制度を変える必要があるのか」を経営に説明しようとすると、どうしても定性的な話になりがちでした。

そこに比較データがあれば、「同業他社と比べてこの部門の人員が多く、生産性に課題がある。だから組織や制度をこう変えたい」というように、定量的な根拠を示せるようになります。ただし、データが人事に代わって答えを出してくれるわけではありません。大切なのは、データを一つひとつの点として並べるのではなく、「自社は今こういう状態にあり、こういう会社を目指している。だから、この施策を行う」というストーリーにすることです。ストーリーとしてわかりやすければ、経営の納得感を得やすくなるだけでなく、社内の人たちも「なぜこの施策をやるのか」を理解し、自分の言葉で説明できるようになります。

そのためには、人事自身が「こういう会社にしたい」「そのために、こういう人や組織が必要だ」と語れることが重要です。

これは人事だけに求められる変化ではありません。経営陣も人事に何を期待するのかを経営戦略に基づいて伝える必要があります。一方、人事も経営を理解し、その実現に自分たちがどう貢献できるのかを考える。経営と人事の双方が歩み寄り、同じストーリーを描いていくことが重要です。

「経営視点を持つ」と言うと、少し大げさに聞こえるかもしれません。僕自身、エンジニアだった頃は、経営はMBAを学んだような特別な人たちがするものだと思っていました。でも、実際に経営に携わるようになって感じるのは、それほど神聖化する必要はないということです。

大切なのは、自分たちの仕事が事業のどこにつながり、どう価値を生み出せるのかを考えること。人事も同じように、採用や育成、配置、制度設計が事業のどこに効いているのかを捉え、自分たちの言葉で語ることから始めればいいのだと思います。

もちろん、そこに唯一の正解があるわけではありません。企業を取り巻く環境そのものが大きく変わる中では、試行錯誤しながら意思決定を続ける力が求められます。データは正解そのものを示してくれるわけではありませんが、不確実な中で進む方向を考え、その選択を説明するための強力な根拠になります。

SmartHRも、人的資本経営を支援することを重要なテーマとして掲げています。これまでの約10年間は、労務をはじめとする業務をテクノロジーによって効率化し、よりよい働き方を支えることに取り組んできました。その先で今、人的資本経営における意思決定や、人事施策の立案そのものをどう支援できるかを考えています。

ただ、データを揃えるプラットフォームをつくるだけでは、このテーマは完結しません。人的資本経営を日本企業に根づかせるには、自社の状態を客観的に捉えられる比較可能なデータに、企業規模を問わずアクセスできる環境と、それを自社の意思決定に活かしていく企業側の視点が必要です。

十分な予算や専門人材を持つ一部の大企業だけが高度な分析を行えるのではなく、中小企業を含めたより多くの企業が、自社の現在地を知り、自分たちなりのTo-Beを描けるようにしていく必要があります。比較可能なデータが広く使えるようになれば、それは企業を同じ方向へ導くための「正解」ではなく、それぞれの会社が自分たちなりの答えを考えるための共通言語になるはずです。

データからAs-Isを知り、自分たちの意思でTo-Beを描き、その間を人事施策でつないでいく。そうした人的資本経営を、あらゆる企業が実践できるようにする。その環境を社会全体でつくっていくことが、これから必要なのだと思います。

編集/erinan(広報)

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